アメリカ研究子育てマンの観察日記

アメリカで研究と子育てに奔走する男の観察日記。独自の視点でアメリカを見つめ、日本を見つめ直す

プラトン Meno (メノン)

プラントが記したソクラテスの対話篇のひとつ。バーチュー(美徳)とは何かについて考えた作品。以降、自分なりの解釈を書くが、英語で読んだこともあり、誤りや意見があれば是非とも指摘して欲しい。

 

メノンという男性が「バーチューとは教授できるものなのか、経験で学ばなければならないのか、はたまたどちらでもないのか」という問いから初まる。以降、二人でバーチューの定義を模索する。

 

メノン自身はバーチューは人それぞれ、例えば男や女で異なるものだと言う。それに対して、ソクラテスはバーチューとは唯一のものであると考えた。良い行いや良い人間は、温和や正義を兼ね備えている点で共通している。故に、バーチューとは正義や温和などの良き心を伴いながら良きものを目指すことであるとであると主張した。二人はバーチューはひとつであることに同意する。しかし、正義や温和などの良い気持ちもバーチューに含まれるため、バーチューを求める手段そのものがバーチューであるというパラドックスに陥るが、この問題には明確答えず、さらにバーチューとは何かを探索する。

 

ソクラテスは司祭や詩人から耳にした魂の話を始める。人間の魂は不滅のものであり、何度も肉体を変えながら生まれ変わっているものである。故に魂はありとあらゆるもの経験しており、何がバーチューであるのか知っている(知識)のである。故に、知識=バーチューであると考えられるが、私たちの魂は肉体に入ったときから、その知識を想い出せないでいるのだ。そのため、知識を得るためには、常に自分の魂に問いかけて探求しなければならない。これに対してメノンは、すべての知識が魂の回想なのかと疑問を呈すが、教育を受けたことがない奴隷が図形の大きさを的確に答える姿を見て納得する。

 

次に本当に知識がバーチューなのであるのか、について議論を深める。ソクラテスはアニタスという男性を捕まえて意見を求めるが、彼は哲学者も知識もくだらないものだ、自分は何が良いことか知っている、といったことを述べる。しかし、ソクラテスは様々な立派な人物の名を挙げ、彼らは教育者なしで立派になりえたであろうかと問い、アニタスを論破する。

 

ここで、知識が美徳であるという結論に達したかに思われたが、バーチューの要素である正義、温和、優しさなどは知識でないく、バーチューを教えることができる人間は存在しない。故にバーチューは知識ではないのではないか、と議論が降り出しも戻りかける。

 

しかし、良い導き手となる人間の特徴を議論している間に、正しい「意見」は人を導く力があるのではないか、それが知識と同じようにバーチューの本質なのではないとという話になる。

 

次に、正しい知識と意見の比較を行う。知識は縛り付けることができる(不変な)ものであるが、意見はどこかに逃げ出してしまう(移り変わりの激しい)ものであるため、知識のようがより高潔なものであるという意見で同意する。

 

バーチューは神から高潔な人間に与えられるものであるが、我々は常にそれを探求しなければならないというという結論で締めくくられる。

 

以上が作品の概要であるが、魂の回想の本質とは何かを理解し、この作品でプラトンが何を伝えたかったのか考えたい。魂の回想の本質を考える上で、私は古代ギリシャ時代のアテネの統治形態から考える必要があるのではないかと考える。同時代のスパルタは厳格な軍事都市国家であったが、それに対してアテネでは芸術等で人々の心を満たすことで統治するという方法をとっていた。アテネでは芸術が花開き、人々が感官に訴えるものを常に追い求めていた。つまり、ここで述べられている知識とは、今日私たちが考えるものよりもより広義なものであり、「心が大きく揺さぶられるが、触れるまでそうとは知らないもの」という意味も含まれるのではないだろうか。iPhoneが売り出された当初はそのデザインや質感の斬新さに人々は熱狂した訳であるが、これなど良い例である。スティーブ・ジョブスは何がバーチューであるかを魂に問いかける天才であったのではないだろうか。

 

この作品は議論が行ったり来たりして複雑であるが、筆者個人はプラトンが主張するバーチューの探求プロセスを以下のようなものであると解釈した。①魂の回想を行うことで正しい知識を得る(場合によっては、何が心をときめかせるものかを知る)、②それに基づき正しい意見を導き出す努力をする、③意見というものは絶対的なものでないため、再度魂の回想を行い、意見を構築する、④これを繰り返す。

 

ところで我々日本人はどれだけ魂の回想を行えているだろうか?次回にそれについて考えたい。